脳科学と仏教で怒りの反応を捨てよう

瞑想で怒りの反応を捨てる
他人のちょっとした態度に動揺して、怒りの反応が生まれ、しばらくの間、そのことで頭の中が独占されてしまう事ってありませんか?

私は、しょっちゅうあります。

その原因を脳科学と仏教を勉強して探し回るうちに、これは自分の心が、無意識に人からの愛を求めているんじゃないかという考えに辿り着きました。

心が「渇愛」の状態なのです。

あなたにも、同じような感覚があるかもしれません。

我を省みる参考になれば幸いです。

スポンサーリンク

脳科学から瞑想、そして仏教へ

私は、熱心な仏教信者ではありませんが、一応、家のお墓は寺の墓地にあるし、仏教徒ということになるでしょう。

普通の日本人的感覚の一般人ということになります。

 

そういうことなので、仏教なぞにはさほど興味がなかったのですが、私とあなたの赤面症の原因を突き止めたい一心で、色々と調べていくうちに、必然的に仏教に辿り着いてしまったのです。

ブッダの悟りの考え方が、避けて通れないポイントなのです。

 

一般の人にとっては、特に日本では宗教という物には、色々と闇の部分があって、ちょっと尻込みしてしまうところがあります。

私もそうです。なんか怪しいなと。

しかし…。

脳科学からなぜ仏教に繋がる?

このブログでは、脳についての記事を多く書いています。

学者でもない私の記事など信頼性はないと言えばそれまでですが、本人、藁をもすがる思いで、調べて書いています。

 

顔が赤くなる現象は、生体反応ですから、神経反応です。

そして、顔が赤くなってしまう現象を自分の意思で止められずに悩んでいるということは、自律神経が普段と違う状態に至っているということです。

自律神経がなんで普段と違う状況になったかというと、

自律神経をコントロールしている「視床下部」が、そのすぐ下にある「大脳辺縁系」から普段と違う刺激を受けて反応してしまっている。

からなのです。

その大脳辺縁系からの、普段と違った刺激というのが、「情動」です。

この大脳辺縁系(主に扁桃体)が、恐怖や好き嫌いについて反応します。

大脳新皮質からの情報も扁桃体に帰っていきます。例えば、「恥ずかしい」などの後付けの感情も扁桃体に帰っていきます。

 

扁桃体での情動反応で視床下部が過剰な刺激を受けて自律神経が乱れる。

この扁桃体の過活動を抑える働きがあるのが、隣るにある「海馬」という部位です。

海馬は主に短期記憶に関わる部位なのですが、過剰なストレスを受けると萎縮することが分かっています。

海馬の萎縮は「うつ病」の原因の1つです。

そしてここが重要なのですが、

マインドフルネス瞑想が、海馬の萎縮を抑える効果があることが、実験により分かっています。

回りくどい説明になってしまいました。

瞑想の脳に与える実験をする場合に、仏教の僧侶の脳を調べることが非常に多いように、色々と調べているうちに私は感じたのです。

 

米アップル社の創始者のスティーブ・ジョブズは、「禅」に強い興味を持っていて、マインドフルネス瞑想を生活の中に取り入れていたことは有名です。

人並外れた時間を瞑想に当てている人間は、世の中には、お坊さんかヨガのマスターくらいでしょう。

ゆえに、瞑想と脳科学の実験には、お坊さんの協力が役に立つというわけです。

瞑想を学んだら、自分の渇愛に気づいた

最近、仕事中に出会う、何人かの小さな振る舞いが、自分の心に引っかかっていました。

  • 横を向いて話す人
  • 挨拶を無視する人
  • コミュニケーションを取ろうしても逃げて行く人

などなど。

 

そんなことがある度に私は、心の中で

「おい、社会人としてそんな対応はないでしょうよ!」

なんて、怒り、虚しさ、悲しさなどのネガティブな感情が頭の中に渦巻いてくるのでした。

人は、意識していなくても、視界の端っこに、誰かの怒りの表情が映っているだけで、扁桃体が反応するという実験結果もあります。(脳科学は人格を変えられるか?エレーヌ・フォックス著)

私は、この怒りは、大脳辺縁系にある扁桃体から来ていると考えて、

「気分を悪くさせられる人」に対する自分自信の怒りを

「この情動反応、自分じゃない。頭の中に飼っている野生動物が勝手に反応しているんだ。」

人間の私が、「脳内の野生動物」を確認する。という方法を実行し始めました。(メタ認知)

この方法は、仏教でいう、ヴィパッサナー瞑想(気づきの瞑想)でいう、ラベリングと同じ方法だと思います。

しかし、私の中の「変な奴らに対するストレス」は、それだけではない気がしたのです。

 

関連記事
雑念を払う方法『ラベリング』

 

社会的欲求から生まれる満たされない気持ち

扁桃体の「好き嫌い、戦うか逃げるか」だけの反応とは違う。

「人と人とのマナーとしてそれはおかしいんじゃないの?」

という、後天的に身につけた価値観によって生まれた不快感。

これは、社会的欲求の範疇に入ってくるでしょう。

言い換えれば「不満」。

渇愛が怒りを生んでいるなんて

私の中の「マナーがなってない人」への不満は、自分の中の野生動物脳のせいばかりでなく。

もっと人間脳の部分で生まれている気がしてならないのです。

そして、同時進行で勉強していた仏教の中に「渇愛が怒りを生む」という教えを見つけました。

私は、痛いところを突かれたなと感じました。

 

人は、愛されたいと誰でも思っています。そんな意識がなくても無意識で愛情を求めています。

「コミュニケーションのマナーがなってないやつ」と勝手に決めた相手に対して私は、

  • こんな風に親しげに挨拶したんだから、こんな風に返して欲しい。
  • こんな風に誠実に対応したんだから、笑顔を返して欲しい。

と、相手に要求していたんだと気付かされました。

それも、親愛の情で対応して欲しいと…。

 

そう要求していたのが、どんな相手かといえば、友人でもない遠い関係の人や、週に1度くらいしか会わないような人に対して、そんな要求を心の中でしていたのです。

そんな遠い関係の人間にまで「渇愛」をしていたことに気づきました。

 

「マナーがなってない」という不満の裏に「私にもっと目をかけて下さい」という欲が隠されていたようです。

 

これに気づいた後、対人関係で、嫌な思いをした場面では、

自分は相手に対して、「渇愛」し過ぎていないかを省みる習慣をつけようとしています。

 

振り返ると、

「あんな奴にまで、オレは愛されようと望んでいたなんて」と、呆れてしまいます。

  1. 挨拶を返されなくて怒る
  2. 対応が悪くて怒る
  3. 冷たくされて怒る

は、皆

「私を愛してちょうだい」の裏返しだと、ブッダは教えてくれました。

瞑想で、湧き上がる気持ちを捨てて行く

仏教の瞑想では、浮かんできた情動を、良い事も悪い事も、それに没入せずに手放して行く「捨」という考えがあります。
「今ここ」に、意識を向けると、未来の不安や、過去の後悔などの雑念が抑えられるという技術なのですが、それに必要なのが「捨」なのです。

「今ここ」に集中する方法は、色々なやり方があります。

  1. お腹の膨らみに意識を向ける
  2. 呼吸に意識を向ける。
  3. 手や足の位置や感覚に意識を向ける

などなど。

仕事中には出来ない事もあるので、嫌な情動や、怒りが発生したと感じた時に、そこに止まらずに捨てていく習慣をつけたいところです。

まとめ

  • 脳科学の研究には、仏教の僧侶が重宝されている
  • 怒りは古い脳の勝手な反応で生まれるが、社会的欲求が育つと新しい脳の側からも怒りの思考が生まれる。
  • 相手にマナーや誠実なリアクションがない事への不満は、実は「渇愛」が原因。
  • 自分の渇愛に気づくことで、相手への怒りを捨てる。
  • 瞑想をして、浮かび上がる雑念を捨てていく習慣をつける。

終わりに

私たちは、仏教のお坊さんとは違う日常生活を送っていますので、仏教の教えの通りに生きることは、難しいのではないかと思います。

良い事も悪い事も捨てていくという教えですが、良いことは喜んで噛み締めて、自己肯定していっても、一般社会に生きて行く人間には良いのではないかと思うのでしょうが、あなたはどう考えますか?

関連記事
苦手な人との接し方で悩まない習慣をつけよう

タイトルとURLをコピーしました